概要
アリス・キテラー(Alice Kyteler、1263年頃生まれ、没年不詳)は、14世紀アイルランド・キルケニーの富裕な貴族女性。1324年、オソリー主教リチャード・デ・レドレード(Richard de Ledrede)により魔術・異端の罪で告発された「キテラー事件」の中心人物であり、ヨーロッパにおける最初期の本格的な魔女裁判の一つとして知られる。
歴史
1263年頃、アイルランドに移住したフランドル系商人の家系にキルケニーで生まれたとされる。生涯に4度結婚し(ウィリアム・アウトロー、アダム・ル・ブランド、リチャード・デ・ヴァル、ジョン・ル・プア)、いずれの夫からも寡婦産(未亡人としての相続分)を得た。1324年、4番目の夫ジョン・ル・プアが病に倒れ、毒を盛られたのではと疑いを表明した後に死去したことをきっかけに、キテラーの継子たちが彼女を毒殺・魔術行使の罪で告発した。同年、当時のアイルランド駐在教皇代理でもあったオソリー主教リチャード・デ・レドレードがこの告発を異端審問として扱い、キテラーとその使用人・関係者らを、悪魔崇拝の集団に加担した異端者として告発する裁判記録を残した。この裁判記録(デ・レドレード自身が編纂した司教登記簿)は、19世紀にトマス・ライトにより校訂・出版され、事件の詳細を伝える主要史料となっているが、告発した司教自身の手による記録である点で、史料としては訴追側の視点に偏った性格を持つことに留意が必要である。キテラー本人は裁判の過程でイングランドまたはフランドルへ逃亡したと考えられており、以後の消息を伝える記録は残っていない。一方、彼女の使用人であったペトロニラ・デ・ミースは捕らえられ、1324年11月3日、鞭打ちの後に火刑に処された。これはアイルランド・ブリテン諸島において異端の罪で火刑に処された最初の記録上の事例とされる。
各伝統における意味
異端としての魔術告発という枠組み
キテラー事件は、魔術行使の告発を単なる世俗犯罪(毒殺・害悪魔術)としてではなく、悪魔崇拝を伴う「異端」として扱った初期の事例として位置づけられる。この背景には、当時の教皇ヨハネス22世が魔術・呪術を異端の一種として教書「Super illius specula」で位置づけ、自身の身に呪術による危害が及ぶことを強く懸念していたという教皇庁側の事情があったことが知られている。
悪魔との性交という告発類型
裁判記録には、キテラーが「ロビン・アーティソン(Robin Artisson、しばしば猫・毛むくじゃらの犬・黒い肌の人間の姿を取るとされる下級の悪魔)」という名の悪魔と性的関係を持ったとする告発が含まれている(サタンそのものとの同一視ではなく、記録上は個別の名を持つ下級の悪魔として描かれている点に注意)。女性が悪魔と性交して魔力を得るとする「悪魔の愛人(インキュバス)」の告発類型としては記録上最初期の事例の一つとされ、後の16〜17世紀ヨーロッパの魔女裁判で定型化する要素をこの時点で先取りしている点で、魔女狩り史研究上重要視される。
グリモワール伝統との違い
この事件で告発の対象となったのは、天使・悪魔を呼び出す体系的な儀式手順を記した文書(グリモワール、グリモワールを参照)を用いた学識的な儀式魔術の実践ではなく、毒物・軟膏の調合や害悪魔術(マレフィキウム)の嫌疑であり、両者は歴史的に系統の異なる現象である。学識層の書物に基づく儀式魔術と、民間伝承・隣人間の告発に基づく魔女裁判とは、しばしば同じ「魔術」という語で語られるが、史料的な性格も社会的文脈も大きく異なる点に留意する必要がある。
現代文化
キルケニーには現在も「キテラーズ・イン」の名で知られる建物が残り、この事件は現地の観光・地域史語りの題材としても扱われている。
関連ノード
参考文献
- Richard de Ledrede, A Contemporary Narrative of the Proceedings against Dame Alice Kyteler, ed. Thomas Wright, Camden Society, 1843(原記録14世紀). — 事件の一次史料である司教登記簿の校訂版
- L.S. Davidson and J.O. Ward (eds.), The Sorcery Trial of Alice Kyteler: A Contemporary Account (1324), Medieval & Renaissance Texts & Studies, 1993. — 一次史料の校訂・注釈を含む標準的学術版
- Bernadette Williams, “The Sorcery Trial of Alice Kyteler,” History Ireland, vol. 2, no. 4, 1994. — 事件の歴史的背景を扱う学術論考