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ジェロラモ・カルダーノ


視点: 西洋占星術 / 歴史 / 哲学
テーマ: 西洋占星術 / 占術

概要

ジェロラモ・カルダーノ(Girolamo Cardano、ラテン語名ヒエロニムス・カルダヌス、1501年-1576年)は、ミラノ公国出身のイタリア・ルネサンス期の博学者。数学者としては三次方程式・四次方程式の解法を著書『アルス・マグナ(Ars Magna)』(1545年)で公にしたことで知られ、医師・占星術師としても当代随一の名声を得た。額の皺から性格・運命を読み取る占術「額相学(メトポスコピー)」を集大成した人物としても、観相学史上重要な位置を占める。

ジェロラモ・カルダーノの肖像版画(楕円形、右向き半身像)
作者不詳『ジェロラモ・カルダーノ肖像』(16世紀、Library of Congress所蔵)。Public domain, via Wikimedia Commons

歴史

1501年、ミラノ公国パヴィアに、法律家であり数学にも通じフェルミの幾何学的問題についてレオナルド・ダ・ヴィンチにも助言を求められたとされる父ファツィオ・カルダーノの庶子として生まれた。パヴィア大学・パドヴァ大学で学び、1526年に医学の学位を取得。1534年にミラノへ移り、当初は困窮した生活を送ったが、やがて数学の講師職を得て、1539年には医師会に入会、間もなくその会長格の地位に上り詰めた。

数学者としては、当時タルタリアが発見していた三次方程式の解法を、口外しないという約束のもとに教えを受けたが、弟子ルドヴィコ・フェラーリが四次方程式の解法を三次方程式の解法をもとに発見したことを契機に、1545年、両者の解法を『アルス・マグナ』として公刊した。この経緯を巡ってタルタリアとの間に激しい先取権論争が生じたが、同書は代数学のみを主題とした最初期のラテン語論考として数学史上の画期をなした。

占星術師としても著名で、多くの著名人のホロスコープを作成したことに加え、1554年頃にはイエス・キリストの誕生ホロスコープを作成・公表したとされ、この行為は後年、異端審問所から問題視される一因となったと考えられている。1560年、長男ジョヴァンニ・バッティスタが、三人の子が自分の実子でないと妻ブランドニアに嘲られたことをきっかけに彼女を毒殺し、逮捕・拷問の末、同年4月13日に処刑されるという悲劇に見舞われ、カルダーノはこの出来事から生涯立ち直ることがなかったと伝えられる。1570年、異端の疑いで投獄され、大学の教職を追われてミラノを去った。晩年はローマに移り、教皇グレゴリウス13世から年金を与えられ、医師会の一員として過ごした。1576年、ローマで死去した。

各伝統における意味

額相学(メトポスコピー)の集大成

カルダーノは1558年頃に額相学に関する論考を執筆したが、生前には刊行されず、死後1658年にパリで『メトポスコピア十三書』として刊行された(詳細は額相学(メトポスコピー)を参照)。同書は額を七つの領域に区分して七惑星をそれぞれ対応させ、約800点の木版図版とともに皺の形状・位置から性格・運命を読み取る体系を提示した、額相学史上最も体系的かつ包括的な文献である。刊行が没後80年以上を経てからとなった背景には、観相学系の占術に対する当時の教会・世俗権力からの警戒に加え、息子の処刑事件や異端審問といった、カルダーノ自身が晩年に直面した数々の困難が関係していた可能性が研究者によって指摘されているが、具体的な経緯は史料上必ずしも明確ではない。

占星術と自伝的著作

自伝『我が人生の書(De Vita Propria Liber)』(死後1643年刊)は、自らの見た夢や体調不良、占星術的な自己解釈までも赤裸々に記した、ルネサンス期における特異な自己省察の記録として知られる。占星術と観相学・額相学は、いずれも天体の影響を人体・運命に読み込むという発想を共有しており、カルダーノの中ではこれらが一つの世界観として結び付いていた。

現代文化

『メトポスコピア』に収められた膨大な木版図版は、その美術的・史料的価値から、現在も版画コレクションや古書市場で取引され続けている。また、三次方程式の解の公式は現在でも数学教育において「カルダーノの公式」の名で呼ばれ、彼の数学史上の業績は今日でも広く参照されている。

関連ノード

参考文献

関連ノード(発見の質でグループ化)

隣接の発見