辞典 / 人物

ルイ=クロード・ド・サン=マルタン


視点: 宗教 / 西洋魔術 / 哲学 / 歴史
テーマ: 西洋魔術

概要

ルイ=クロード・ド・サン=マルタン(Louis-Claude de Saint-Martin、1743年-1803年)は、フランスの神秘思想家。マルティネス・ド・パスカリー(マルティネス・ド・パスカリ)の弟子として出発しながら、後に儀礼的テウルギーから離れ、内面的な瞑想と神への直接的帰依を重んじる観想的神秘主義を展開した。匿名で著作を発表する際に用いた「無名の哲学者(le philosophe inconnu)」の呼称で知られ、その思想的系譜は後世「マルティニスム」の一源流として位置づけられることになった。

ジャン=バティスト・フーケ(原画)/ジル=ルイ・クレティエン(フィジオノトレース版画)によるルイ=クロード・ド・サン=マルタンの肖像(1801年頃)
ジャン=バティスト・フーケ(原画)、ジル=ルイ・クレティエン(フィジオノトレース版画)『ルイ=クロード・ド・サン=マルタン肖像』(1801年頃)。Public domain, via Wikimedia Commons

歴史

1743年1月18日、フランス中部アンボワーズの下級貴族の家に生まれた。父の意向により法律家、次いで軍人としての道を歩んだが、1768年、ボルドー駐屯中にマルティネス・ド・パスカリーと出会い、深い影響を受ける。1768年から1771年にかけてはボルドーでパスカリーの秘書を務め、フリーメイソン的な位階構造の中で天使的霊との交霊(テウルギー)を実践する秘教結社「エリュ・コエン」の教説に触れた。

1771年に軍を退いた後、著述と講話を通じて神秘思想の普及に努めた。最初の著書『誤謬と真理について(Des Erreurs et de la Vérité)』(1775年)を「無名の哲学者」の名で匿名出版し、以後もこの筆名を用い続けた。1774年にパスカリーが西インド諸島サントドミンゴで客死すると、エリュ・コエンの組織的活動は停滞していく。サン=マルタン自身は、複雑な儀礼的テウルギーに次第に距離を置くようになっていた。

1788年にイギリス・イタリアを訪れて帰国した後、ドイツの神秘家ヤコブ・ベーメの著作に出会い、その思想に強い影響を受けた(サン=マルタンはベーメの著作をフランス語に翻訳した最初の人物とされる)。この出会いを経て、彼の思想はエリュ・コエン流の儀礼的テウルギーから完全に離れ、内面における神との合一を重んじる、より純粋に観想的な神秘主義へと発展した。革命期のフランスにも留まり、『人間精神の役務について(Le Ministère de l’homme-esprit)』(1802年)などの晩年の著作を残した後、1803年10月14日、パリ近郊オルネー(Aunay)にて没した。

各伝統における意味

キリスト教神秘主義とマルティニスム

サン=マルタンは、生前に自ら正式な結社を組織することはなかったが、その観想的・内面的な神秘思想は、フリーメイソン的な儀礼結社の伝統とは一線を画す系譜として、後世「無名の哲学者の学派」と呼ばれるようになった。19世紀末、パピュス(パピュス)がパスカリーの「エリュ・コエン」の系譜とサン=マルタンのこの系譜を統合し、「マルティニスト教団」として正式に組織化した際、その名称は師パスカリーではなくサン=マルタンの姓に由来する名で呼ばれることになった(マルティニスム)。この経緯は、パスカリーとサン=マルタンという二人の人物・二つの異なる志向をしばしば混同させる一因ともなっている。

関連ノード

参考文献

関連ノード(発見の質でグループ化)

隣接の発見