概要
『エノク書』(1 Enoch、第一エノク書)は、旧約偽典の一つで、創世記に登場する族長エノクに仮託された黙示文学。天から人間界に降りた「見張りの天使(ウォッチャーズ)」たちの堕落の物語(「見張りの天使書」)を中心に、天体運行・終末論・審判などを扱う複数の文書からなる複合的な作品。ユダヤ教・主流のキリスト教では正典に含まれないが、エチオピア正教会では正典として扱われる。なお、後代の伝承でエノクが天使メタトロンに変容したとする『ヘブライ語エノク書(3 Enoch)』は、成立時期・内容ともに異なる別個の文書であり、本ノードとは区別する。
語源
「エノク」はヘブライ語 חֲנוֹךְ(Hanokh)に由来し、創世記5章に登場する族長で、天に「取り去られた」(地上での死を経験しなかった)とされる人物。
歴史
現存する最古の写本は死海文書(クムラン写本)に断片として発見されたアラム語写本で、紀元前3〜前2世紀頃まで遡る各部分の成立が確認されている。完全な形で現存するのはエチオピア語(ゲエズ語)訳のみで、これがエチオピア正教会の正典としての地位を保った。初期ユダヤ教黙示文学および初期キリスト教思想に大きな影響を与えたが、後にユダヤ教ラビ文献・キリスト教正典の双方から外典・偽典として排除された。
各伝統における意味
見張りの天使書(第1〜36章)
創世記6章1〜4節の「神の子ら」が人間の娘たちと交わったという断片的な記述を大幅に敷衍し、「見張りの天使(ウォッチャーズ)」と呼ばれる天使の一群が人間の女性への欲望のために天を離れ、鍛冶・化粧・呪術などの禁じられた知識を人間に伝えたとする物語を描く。この一群の指導者格とされるのがアザゼル(アザゼル)であり、この堕天使伝承の全体像は「堕天使」(堕天使)の項で扱う。
四大天使の役割
見張りの天使書には、ミカエル・ガブリエル・ラファエル・ウリエルの四大天使が、堕落した見張りの天使たちを裁くために神から遣わされる場面が描かれる。ウリエル(大天使ウリエル)は、この文書では光・啓示・冥界を司る天使として特徴づけられる。
死海文書としての発見
20世紀のクムラン写本発見により、本書が紀元前のユダヤ教社会で広く読まれていたことが実証され、初期ユダヤ教黙示文学研究における重要な一次資料として再評価された。
関連ノード
参考文献
- George W.E. Nickelsburg, 1 Enoch 1: A Commentary on the Book of 1 Enoch, Chapters 1–36; 81–108, Fortress Press, 2001. — エノク書の標準的学術註解
- James H. Charlesworth (ed.), The Old Testament Pseudepigrapha, Volume 1: Apocalyptic Literature and Testaments, Doubleday, 1983. — 旧約偽典の標準的英訳・註解叢書