辞典 / 概念

暗号術


視点: 西洋魔術 / ヘルメス思想 / 歴史 / 言語学(語源)
テーマ: ヘルメス思想 / 西洋魔術

概要

暗号術(cryptography)は、本項では現代の計算機科学的な暗号理論ではなく、ルネサンス期ヨーロッパにおいて魔術的・錬金術的な写本の伝統と分かちがたく結びついていた、秘匿された記述・通信の技法を扱う。とりわけドイツの修道院長ヨハネス・トリテミウス(1462年-1516年)の著作『ステガノグラフィア(Steganographia)』は、表面上は天使を用いた魔術書でありながら、内実は高度な暗号通信の体系書であるという、魔術と暗号術の境界そのものを体現する文献として知られる。

語源

「クリプトグラフィー(cryptography)」は、ギリシャ語の「隠された(kryptos)」と「書くこと(graphein)」を組み合わせた語に由来する。トリテミウスの主著の題名「ステガノグラフィア(steganographia)」も同様に、ギリシャ語の「覆われた・防水の(steganos)」と「書くこと(graphein)」の合成語であり、原義は「隠し書き」を意味する。この語は後に、情報を別の情報の内部に隠す技法全般を指す現代の学術用語「ステガノグラフィー」の語源ともなった。

歴史

トリテミウスと『ステガノグラフィア』の成立

ドイツ・シュポンハイム修道院長ヨハネス・トリテミウスは、1499年頃に『ステガノグラフィア』の執筆に着手した。同書は全3巻からなるラテン語の著作で、第1巻・第2巻は、精霊や天使を介して遠隔地に思念やメッセージを伝えるという体裁を取りながら、実際には具体的な暗号化・復号の手順を記した実用的な暗号術の解説書であった。第3巻はより難解で、表面上は占星術的な天使魔術の体系を論じているように見えるが、この部分にもさらに高度な暗号情報が埋め込まれていることが、20世紀末の研究によって明らかにされている。

この著作は当時写本の形で内々に流通し、1606年になってようやくフランクフルトで印刷刊行された。刊行後まもない1609年、内容の魔術的な体裁を問題視したカトリック教会によって禁書目録(インデックス)に加えられ、以後長らく閲覧が制限された(禁書指定は1900年に解除されている)。

解読の歴史

『ステガノグラフィア』第1巻・第2巻の暗号解読鍵は、1606年の刊行とほぼ同時期に公開され、これによりこの2巻が純粋な暗号術の教本であることが判明した。一方、より難解な第3巻については、長らく「純粋な天使魔術の書」であるとする解釈と、「これもまた暗号術の書である」とする解釈とが対立していたが、1998年に数学者ジム・リーズが第3巻に埋め込まれた暗号を解読したことで、この部分もまた魔術的記述を隠れ蓑とした暗号通信の体系であることが実証された。もっとも、トリテミウス自身がこの魔術的体裁をどこまで本気の宗教的実践として意図していたのか、単なる隠蔽の道具として利用したに過ぎないのかという点については、研究者の間でなお解釈が分かれており、断定は避けるべきである。

トリテミウスはその後、1518年に『ポリグラフィア(Polygraphia)』を著しているが、こちらは魔術的な体裁を取らない、明確に暗号術のみを主題とした著作であり、西洋における暗号学の最初期の体系的教本の一つとされている。

各伝統における意味

魔術文献における暗号の機能

トリテミウス以降も、グリモワール(グリモワール)の伝統に連なる魔術文献では、術式や霊名を独自の文字体系や暗号的な記法で記す慣習がしばしば見られた。これは知識を部外者から秘匿するという実用的な動機と、秘儀は安易に開示すべきでないとする秘教的な理念の両方に基づくものと解釈されている。

ジョン・ディーとエノキアン文字

イングランドの数学者・占星術師ジョン・ディー(ジョン・ディー)が霊媒エドワード・ケリーとの交霊を通じて記録したとされるエノキアン語・エノキアン文字(エノキアン魔術)も、独自の文字体系という点でトリテミウス的な暗号術の伝統と関心を共有する。ただし、エノキアン文字は暗号として解読を意図された体系ではなく、天使が直接授けた「言語」であると主張された点で、意図の上ではトリテミウスの暗号術とは異なる。

現代文化

未解読のまま残されている中世写本ヴォイニッチ写本(ヴォイニッチ写本)は、しばしばトリテミウスの暗号術の伝統と並べて語られる。ただし両者は性質が異なり、『ステガノグラフィア』は解読鍵が判明している既知の暗号体系であるのに対し、ヴォイニッチ写本は現在に至るまで暗号としての解読すら成功しておらず、そもそも意味のある暗号文であるかどうか自体が議論の対象となっている。

関連ノード

参考文献

関連ノード(発見の質でグループ化)

隣接の発見